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  • CIEC第106回研究会

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若林靖永会長(京都大学経営管理大学院経営研究センター長)が、ユニークなCIEC会員を中心に自らインタビューを行う企画の第5回。ソーシャルメディア時代のワークスタイルを研究する松下慶太さん(実践女子大学人間社会学部准教授)です。今回、新たな試みとしてビデオ収録を行いました。ぜひ臨場感あふれる映像をご覧ください。

(編集: CIEC広報・ウェブ委員会 角南北斗、小野田哲弥)

1.サバティカル滞在先としてなぜベルリンを選んだのか

松下さんは京都大学文化学研究科、フィンランド・タンペレ大学ハイパーメディア研究所研究員などを経て現職。博士課程時代の研究テーマは「情報教育」(教育の情報化)だったが、当時から教育工学的アプローチ(教育効果の測定)よりも「建築学的観点」(場所や空間の構成や変容)に関心が高かったという。実践女子大学の教員になってからの主たる研究テーマは、博士課程時代の研究を発展させた「ワークスペース」、そして勤務校の所在地である「渋谷の街」。渋谷はかつての「若者の街」というイメージに加え、現在はコワーキングスペースをはじめ、新しい働き方の先端を走る街になっていることが背景にある。


2018年度はサバティカルを取得してベルリン工科大学へ。留学先として「ベルリン」を選んだ理由は、渋谷との対比として興味深かったから。ベルリンは政治的首都でありながら産業面に弱いため、「デザイン」や「ICT」といった新産業の育成に積極的だ。ロンドンやパリと比べて比較的物価が安く、ビザも取りやすいため、ヨーロッパ中から先進的な若者が集まる街でもある。さらに現在、東ベルリン地区の再開発も進んでおり、「空間をどう使うのか」というリノベーションの観点からも、ヨーロッパの中で最もアグレッシブで面白い都市だと考えた。

2.コワーキングスペースの意義をどう考えるか

若林会長のコワーキングスペースに関する「誰が?何のために?」という質問に対して、松下さんは、第一に「越境」、すなわち学習論や経営イノベーション論でよく語られる「セレンディピティ」(偶然がもたらす幸運)への期待を挙げた。続いてユニークな説明が語られる。それは「孤独」への着眼だ。松下さんは孤独にも「積極的孤独」と「消極的孤独」があると語る。オフィスの中で忙殺されるビジネスパーソンが持つ一人で集中したい欲求が前者、フリーランスといった新しい働き方をする人々の寂しさを解消する目的が後者の代表例だという。


松下さんがベルリンでの観察から感じたのは、コワーキングスペースにおける「実践共同体」と「スタイル共同体」という2つの類型の存在であった。実践共同体は目的志向のプロジェクトを典型とした「正統的周辺参加」であり、他方、スタイル共同体とは、新しい働き方を肯定・共有するための交流の場だという。また松下さんは、「正統的周辺参加」の対として、新参者がコミュニティを先導する「ゲリラ的中核参加」という新概念を提示する。この説明に若林会長も、コワーキングスペースが持続的に成長発展していけるかどうかの分岐点がまさに「ゲリラ的中核参加」の有無だと賛同する。なぜなら、常連客が仕切ってしまったのでは、折角の「越境」(セレンディピティ)の効果が薄れてしまうからである。

3.ベルリンで感じた日本との違いは?

日本とベルリンとの比較においては、我が国におけるコワーキングスペースは「働き方改革」の一環として「企業」をターゲットとしているのに対して、ヨーロッパ諸国では主体者として「個人」が設定されているという差異がまず議論される。その意味では日本の「働き方改革」は「働かせ方改革」かもしれない。


働き方に関する両者のスタンスの違いを示す好例が「サバティカル」だ。日本人研究者はサバティカル中も勤勉で驚かれる。ヨーロッパでは「ワーケーション」(ワーク+バケーション)の一環として、どのように働きたいのか、(例えば引退後)どういったライフスタイルを求めるのかを再考する期間としても重視されるのとは対照的である。

4.教育手法としてPBLを取り入れた理由

ここからインタビューの主題が教育へと移る。松下さんが教育面で重点的に取り組んでいるのは産学連携PBL(Project Based Learning)だ。特に「オフライン」のフィールドワークに注力している。ただしここでいうオフラインとは、従来の「オンライン」との二項対立概念ではなく、「オンライン行動を前提とするオフライン行動」(ex. 渋谷のハロウィンやタピオカミルクティー)である。この指摘に対して若林会長も、専門のマーケティング分野の「循環型消費」や、教育における「反転授業」を引き、現代の一般的傾向だと解説する。


PBLを重視する理由としては、“実践”女子大学はその名の通り“実践”重視の校風であり、なおかつ渋谷という立地が、産学連携PBLを実施する上で、絶好のロケーションとなっていることも挙げられる。だが第一の理由は、実社会はペーパー試験とは違い、何が問題かもわからない中で、個人ではなくチーム単位で取り組むことが常であるからに他ならない。この「トランジション」(遷移、移行準備)という点に関して、若林会長も、現代の高等教育における課題を反映しているとした上で、大学での専門が就職後にどう繋がるかを理解するためには、大学で学んだことを一般化して、応用・展開・活用できる実践の場が不可欠であり、「PBLは、むしろ学びのデフォルトであるべき」と指摘する。

5.PBLをデザインする際のポイント

PBLでは、「企業」と「学生」がインタラクティブな関係にある。学生がどの程度のアウトプットができるのかを企業側が「練習問題」として試すだけでなく、学生も企業側にとって「本当・実際に」取り組んでいるその課題に “真正性”がない限り、本気で取り組まない。もう一つ難しいのが第三の立ち位置としての「教師」だ。一方では提案を考える学生の味方でもありながら、他方では企業のように講評する立場でもある。実際に教師がどこまでサポートするかは状況依存だが、教員の手を離れて学生が完全に主体的に活動できることが最終ゴールであることは言うまでもない。


その補助機能として実践女子大学人間社会学部で試験導入しているのがLF(ラーニング・ファシリテーター)だ。LFは教員と学生の間に入り、後輩をサポートする「先輩」である。その効果が絶大であることは、京大のゼミで同じ仕組みを取り入れている若林会長も強く同感。松下さんがPBLで心掛けている点を「メタ」(学んだ知識を抽象化して一般化すること)と「ベタ」(学んだ知識を実際に使いこなすこと)の両立だと述べれば、若林会長からも、PBLは繰り返すこと、すなわち、一度何もわからない下級生として経験し、次は全体像を見渡せる上級生として指導に当たる2つの経験が重要だと語られる。

6.PBLを超えた将来ビジョン

PBLにおける目覚しい成果によって、2016年に実践女子大学ベスト・ティーチング賞も受賞している松下さんだが、近年、PBLの弊害も感じ始めているという。一つは学生たちの目的意識が「パワポを綺麗に作りたい」「プレゼンが上手くなりたい」に向けられ、本来のPBLの趣旨から逸れてきている点。そしてもう一つは、「問題解決」の経験に慣れてしまうことによって、社会に出てから直面するであろう「そもそも何が課題なのかわからない問題」に対処できなくなる恐れがあるからだ。したがってサバティカルから帰ってきた2019年度は、あえて具体性の低い課題を与えたり、自分たちで問いを投げかけるようにし、スペキュラティブ(探索的)な作品制作を目指した教育活動を行っている。


また最近では、ソーシャル・デザインの観点から、「デザイン態度」という概念に注目している。代表的なのは「Good Movie」か「Nice Party」かという議論だ (*註)。前者は限定された選択肢の中からどれを選ぶかという価値づけ重みづけなのに対し、後者は組み合わせが無限大で拡張可能である。実際の社会問題は「Good Movie」ではなく「Nice Party」だと捉えており、松下さんが理想とする学生像も、「Good Movie」を選ぶ学生ではなく、「Nice Party」を創れる学生だ。若林会長も一定の期間内に成果を出す点ではPBLは優れているが、一方で「当たって砕ける」経験を許容し、「失敗しても、それも学び」という寛容な姿勢が大切だと補足する。そして、現代は「ほしいものは選択」する、消費型の欲求充足が標準的だが、制約のある状況下でやりくりし、「創造して楽しむ」ことが大切であるとも。そして二人共通して、大学は「小さな社会人」の量産だけではなく、「未来の社会人」を育成する場であってほしいと願いを込める。

* Hatchuel, A. (2002) Towards Design Theory and expandable rationality : The unfinished program of Herbert Simon. Journal of Management and Governance 5:3-4 2002.

7.CIECへの期待

最後に「CIECへの思い」を尋ねた若林会長に対して、これまで会誌編集委員として数多くの査読に携わってきた松下さんは、投稿論文にしてもPCカンファレンスでの発表にしても、脱中心的に、既存分野のピラミッド構造に囚われることなく、「CIECらしい」さらにいえば「CIECだからできた」という研究がもっと出てきてほしいと語る。


松下さんがCIECに期待するのは、ある種コワーキングスペース的な熱気のある雰囲気だ。「実践共同体」的にいろいろな知識が共有されることはもちろんのこと、「スタイル共同体」として、新たな研究スタイルを披露し、シェアされる場である。これに若林会長が、参加することで“リフレッシュ”もできる「ワーケーション」機能もあると付け加え、笑いが起きる。だが「PCCにも学園祭を創るようなワクワク感がほしい」と語る松下さんの目は真剣そのものであった。


開催趣旨

文部科学省は,変化の激しい時代において、新たな価値を創造していく力を育成するために、入学者選抜試験の方法やe-Portfolioの活用など高大接続改革を進めている.

前者の入学者選抜試験においては,『学力の3要素』(1.知識・技能、2.思考力・判断力・表現力、3.主体性を持って多様な人々と協働して学ぶ態度)を育成し多面的に評価することが重要であるとし,また,英語4技能評価や記述式の問題も導入が検討されている.

後者のe-Portfolioでは,学習活動を記録し、今後の学び・成果につなげていくためのふりかえりが主な活用となるが,蓄積した「学びのデータ」の中から成果を抽出することで,大学の出願等に利用可能となる. 本研究会では,後者のe-Portfolioにフォーカスし,活用の現状と今後の問題点について議論したい.

対象・人数

参加人数:約40名

資料


2019PCカンファレンス2日目の8月7日(水)、CIEC総会会場において「2019年度 CIEC学会賞 論文賞」の表彰式が行われました。CIEC学会賞論文賞は「本会の会誌に論文を発表し、コンピュータ利用教育の発展に独創性および将来性をもって寄与したと認められる者」に授与される賞です(CIEC表彰規定)。

会長インタビューの第4弾のお相手は、同賞を受賞した論文「「ロボットに命はあるの?」人とロボットの心を考えた小学校2年生道徳の授業」(『コンピュータ&エデュケーション』vol.45, pp.41-47,2018)の著者である、面川怜花さん(東京学芸大学附属世田谷小学校教諭)と松浦執さん(東京学芸大学教育学部教授)のお二人です。

(編集:CIEC広報・ウェブ委員会 小野田哲弥)


2019PCカンファレンス表彰式(左から、松浦執さん、面川怜花さん、若林靖永CIEC会長)


1.教科化された『道徳』※で何を目指すか


※教科名称は「特別の教科 道徳」であるが、本稿では二重鉤括弧の『道徳』と表記する。


このたびはCIEC学会賞論文賞の受賞、おめでとうございます。学会誌のタイトル「コンピュータ&エデュケーション」に相応しい新規性の高い実践成果だと評価しております。特に小学校の『道徳』は必修化する中で、どう評価するかなど注目度が高い科目でもありますが、まずは論文の背景として、今日の『道徳』が何を目指しているのかについて伺っていきたいと思います。


私の中では、将来的に自分がどう生きていくか、どう選択するかを考える際に、そもそも自分のことを知らなければその判断ができないのではないかと考えています。「自分を見つめ」て、自分の良い面も悪い面も「自分のよさとして気づく」科目であってほしいと考えています。


早速ハッとさせられました。普通「道徳」というのは社会の方に従うべき倫理やルールが先にあって、それを学びなさいみたいなイメージがあるのに対して、面川先生のお考えはまったく違うんですね。「自分を知る」すなわち、自分の良さや弱さを自覚することによって他者との関係性やルールがわかっていくという。社会や組織に対する自己犠牲を強いるかつての「道徳」とは真逆の、現代に合ったアプローチだと感じました。そのように「個人」を大事にする背景というのは何かあるんですか?


そもそも『道徳』自体が本来そういう学習の時間だと私は理解しています。ただ、学習指導要領は情意面よりも行為面を重視した事例が多いように感じています。たとえば「生命の尊さ」について学ぶ際、「どのようなときに命の大切さに気づくか」の場合では、「ご飯を食べるとき」のように、行為面を伴う例が多いんですね。だから道徳のイメージは誤解されてしまうのかもしれません。私は「ご飯を食べるとき」の場面に出会ったときに感じる心や、その心の背景(その子の生活や経験)が大切だと思っていて。本来はこうした行為の背景にある情意面の耕しを大事にする時間のはずなのです。


情意面が教育で取り扱うにはデリケートな領域というのもその背景としてあるかもしれませんね。つまり「内心の自由」というのは現代の人権の基本で、心の中で何を思っていても処罰されない。一方、行為は責任を伴って罰せられるから、行為の方に注目せざるを得ないという。でも、行為が変わるためにはおっしゃる通り、思いや感情、意図といった情意面が変わる必要がある。情意面をいじるのは問題があるので気をつけなければならないけど、子どもたちが様々な経験をへながら、情意面を豊かにし、自ら判断して望ましい行為を選択し変えていくことを目指されているわけですね。なるほど、情意への注目。今回の論文の中心テーマにつながった気がします。松浦先生はいかがですか?


教育というのは「エデュケートする」というか、あるべき型に当てはめていくというのがあると思うんですけど、たとえば社会学とか理科っていうのは、「社会はどうなっていて、どうあるべきか」や、「自然はどうなっているのか」を見ます。それに対して、「自分はどういうものか」というのは案外教科としてはないですよね。伝統として与えられていたりする場合もあるけれども、積極的に考えることに意味がある。つまり人間というのは、「自分はもっとこうした方がよかった」「こうなろう」という自己修正ができるところが、様々な問題に対処できるポイントだと思うんです。だから、こういう時はこういう行動を取るべきだという知識を与えられて覚えるというのは間違いで、こういう行動を取った方が気分が良い、理に適っている、将来を考えて選択する、そういった「心の中の動き」にまで到達しないと、すぐに忘れちゃう知識になると思うんです。


わかります。やっぱり自分自身の気持ちに伴う行動があって、その行為のリアクションを自分の気持ちで受け止めて…というサイクルがあることはその人の体験になるけど、言われたことを覚えて答案に書いても、それは簡単に忘れますから。本当の意味での学習はその人が変わることだから、ペーパーを書いていい点取るということは、しばしば本当の意味で学習できたとは言えない側面があるということですね。


インタビュー風景(左から、若林靖永CIEC会長、面川怜花さん、松浦執さん)


2.教材としてロボットを導入した経緯


今回のこの受賞論文を読ませていただいて、本当にユニークだと思いました。ロボットを通じて、いのちの大事さ、生命の尊厳を考えるという内容ですが、まず率直に、子どもたちがどのように感じるのかは予測不可能でコントロールが難しく、学校現場で教材に選ぶのには勇気がいるなぁと。こういう授業実践を『道徳』という科目の中で立てられた意図もあるだろうし、また同時に学ぶためにロボットを材料にしようというアイディアもありますよね。それらについてお聞かせ願えますか。


先ほど話させていただいた私の『道徳』に対する思いから、情意を育てようとしたときに、読み物教材や映像教材への限界を感じていました。それよりも“体験”が大事なんだろうなぁって。読み物や映像だと、肌感ではなく、どうしても“読み取り”の力になってしまう。それも大事なんですけど、小学2年生の子どもたちだから、もっと感情を揺さぶられるようなことがあってほしいなって思ったんです。ちょうど2年前の夏に『道徳』で「美しい心/畏敬の念」の研究授業をすることがあったのですが、その時に「畏敬の念」を身近に感じるのは難しくて、どう子どもと授業をつくろうかって悩んでて…


特に現代の子どもたちは難しいでしょうね。「畏敬」ってどちらかというと権威があることと結びついているけれども、いま権威的に影響力を及ぼす存在の大人ってなかなかいないですもんね。


その時に美しさを感じる対象には人工物も含まれるという点、たとえば花火を見て「わぁ!」とその子の感情が沸き上がることのような体験が教材の中でできないかと考えていたタイミングと、松浦先生がお持ちのロボット校長先生が繋がったんです。NAO校長先生は本校では「チビ校長先生」と子どもたちに親しみを持たれている存在で、「校長先生のお話」でよく出てきて、校長先生に代わってしゃべるんです。そして様々なトラブルなどもありながらも、子どもたちが「何をしゃべるんだろう?」って熱中して聴き入る姿を身近で見ていて、これからのAI時代、ロボットとの関わりを考える上でも興味深い教材になると思ったんです。


なるほど、NAO校長先生はすでに活用されていて、学校行事でも挨拶などをしていたので、単なる教科書の読み取りではない深い学びを行おうとした際に、NAO校長が使えそうだと閃いたわけですね。でも実際に授業プログラムに落とし込もうとすると、そこから一捻りも二捻りも必要になりますよね。松浦先生はそのように持ち掛けられたときにどうお感じになったんですか?


待ってましたと(笑い)。やっぱり授業で何か新しいものを先生が持ち出してくると子どももすごく関心を持ちますが、NAO校長先生の場合はすでに一つのパーソナリティを形成しているので、クラスの先生が何かポンと自分のものを持ってくるのとは、また違った関心を呼ぶと思うんですね。すでに前兆というか、仕込みがされていたというか、体験からすぅ~と入っていける。実際に今回の試みで初めてNAO校長先生が登場したのは、面川先生のクラスの演劇発表の振り返りの時だったんですけど、「えっ!?NAO校長先生も練習見てたの?」みたいな反応が上がりました。


東京学芸大学附属世田谷小学校における面川怜花さんの授業風景


3.丁寧に、疑問と向き合う大切さ


読み物も映像もイメージがあれば体験になると思うけれども、ロボットだったりゲストが来たりといった、よりインタラクティブな相互作用があるものだと、本当にリアルな体験としての学びの場になりうるということですね。ただそこから「命の尊さをロボットで学ぶ」というとこまではもう一つ飛躍があるように思います。その着想はどうして生まれたんですか?


最初はNAO校長先生の特徴を見つめることで、ロボットと人間とを比較して、自分の良さに気づくという方向で授業を計画していました。でも授業の始めのところで、NAO校長先生の話が途中で止まってしまって教室内がざわついたとき、ある子が「みんな待ってあげて!いま考えてるんだから」と、NAO校長先生の気持ちを代弁したんです。その時に人間ではないNAO校長先生も、一緒に生活する、人格をもった一人の人物として見られていると感じたんですね。それで自分が自分でいられる「いのち」というものに着目することで、NAO校長先生と自分を深く見つめられるんじゃないかと思って、授業計画を修正していきました。


それは面白いですね。確かにロボットは人間ではなく、生物でもなく、プログラムで動いているということを大人は知識として知っているので、ロボットと人間との違いは何だという話に持っていきがちだけれども、人間は種として自分のように考えるという特徴があると言われていますが、「待ってあげて」と言った子も、自分が同じように当てられてすぐに答えられなかった経験から、自分の気持ちを投影しちゃったんでしょうね。なるほど、そういった経緯からプログラムが進化していったんですね。では実際に授業実践していく上ではどういった苦労があったんでしょうか?


当初私は、『道徳』の短編として「いのちの授業」を考えていたんですけど、その時間を子どもたちにとって本当に価値ある時間にするためには、それを支える時間が必要だということに気づき始めて、実際4か月かかりました。それはNAO校長先生が教室にきた後のふりかえりで、先ほどの子のように命を見出している子もいれば、まったく無関心の子がいたり、ロボットの機械的な部分に着目する子もいたり、いろいろいたからです。それぞれの疑問にちゃんと向き合う時間を作らないと、各自が考えるところまで行きつかないんじゃないかな、と思ったんですね。疑問を抱えたままだと集中して考えられないので。


たとえば、機械的なことに関しては、NAO校長先生がプログラムで動いているということがわかるように会話プログラムを画面上で見せました。NAO校長先生が反応している・していないということを通して子どもたちの理解を促すことや、目はどこにあって「ご飯」である電気はどうやって取り込むなど、そういうことを一つ一つやってNAO校長先生に寄り添っていったわけです。ただ何時間目に何をやってというのが私の中にあったとしても、子どもたちの中ではそうじゃないことも多くありましたので、どこでどんな教材を出すか、どういう順番でやったらいいのかはすごく悩んだし、苦労しました。


単純に「体験」にしてしまうと、その子が元からもっている知識や見方のままになってしまいますからね。ロボットがプログラムで動いていることを理解する実習があってこそ納得しますものね。疑問を大事にされることは実は自分を大事にされることだと思います。なのでこの疑問に即してという部分が、根本的に重要な点かなと感じました。松浦先生から見ていかがですか?


面川先生をはじめ、小学校の先生方は子どもたちをよく見て、前の授業や前の前の授業の子どもたちの反応を次にどう繋げようかということを真剣に考えていらっしゃって…


本当に高度なアドリブが求められる世界ですよね。


はい。当初この授業は「いのち」を考えるから、ロボットはアルゴリズムに従って動いているだけなのに対して、人間には意思があって尊い、ということを子どもたちが発見するだけかと思っていました。ですが実際に始めてみると、ロボットにはロボットの「いのち」があり、じゃあ私たちの「いのち」はどこにあるの?といった議論に深化していった。最終的に割り切れる答えに持って行こうとする子もいれば、アニミズムに近い発想だったり、自分の投影だったり、いろいろな考え方の子たちがいました。その一つ一つに先生が真摯に向き合って、子どもたちと進んでいった。ついには「ロボットも自分と一緒にいて幸せを感じてほしい」という意見を言う子がでてきて、われわれ教員側の予測を超えて、人間対人間が相対化された、新たな人工物の世界の中で若い世代は成長していっているんだなということに感銘を受けました。


今まさに教育のテーマとして「正解を覚えるところからの脱却」が謳われていますが、子どもたちも大学生も依然として極めて合理的、効率的に行動するという志向が強い中で、いまお話にあったような、明瞭な答えがない中で、じっくり時間をかけて考えるというか、一つのトピックに集中できる環境づくりは大切ですね。そのためには、授業を子どもたちと一緒に創り上げていくとはもちろんのこと、子どもたち同士のインタラクションも重要で、この教育実践の素晴らしいところは、あいだにNAO校長先生を置いたことで、それらが活性化され、お互いの意見を尊重して深い学びができたということですね。


このプログラムで興味深かったのは、ずっと気持ちが変わらない子はいなくて、「ロボットに命はあるかも?いや、ないかも?どっちだろう…?」と揺れ動きながら、それぞれの命の在り方に対する考えが深まっていく形が見えたことですね。


生命をどう捉えるかも含めればもっとバリエーションがあるわけですけど、仮に「あり/なし」だけでも、論文にあったように、スイッチしているという結果が興味深かったですね。単発の授業で「どっちが多数派」と結論を出して終わるのではなく、何度も尋ねて深く考えさせているところが『道徳』の授業っぽいと思いましたし、何度も何度も投票してもらっているところが教育手法として、秀逸だと感じました。


人は迷いながら生きているので、ブレてもいいじゃん、って思うんですよね。全く同じ場面というのは二度とないし、全く同じ感情というのも二度とない。都度感じることがずっと同じである必要はないんだということを子どもたちにも知ってほしかったところもあります。


迷わず即決して行動するのが必ずしも正しい訳じゃなくて、迷うことがあるということを知り、しかも、迷うことはいいことなんだというメッセージになっていますよね。


インタビュー風景(左から、若林靖永CIEC会長、面川怜花さん)


4.ロボットは自分を映す鏡


子どもたちの学びの深化について話してきましたが、今回の授業実践を通じて、先生方の気づきとしてはどんなものがあったのでしょうか?


やっぱり、人ではないロボットに対して「いのち」を見出し、人と同じように接するようになっていったのが一番のびっくりポイントでした。役割演技などを通して「ロボットは自分の言いたいことも言えなくて大変。だから人間の方が素晴らしいんだ」という方向で考えていけたらと思っていたんですけど、そうもいかなくなっちゃって…


先生が最初に考えられたストーリーを理解しつつも、それでも「人間のように大事にしたい」という気持ちが育まれていったということですね。


はい。またこの学習を通して、自分の感情を前提にロボットのことを考えていることもわかりました。たとえば「自分はお風呂に入ってハッピーだから、NAO校長先生もお風呂に入ったらハッピーだ」みたいに。いやいや、NAO校長先生はお風呂に入ったら壊れちゃうんだけど…と思いましたが(笑い)。他にも「一緒にサッカーやったらNAO校長先生も楽しいよ」とか、自分の興味や関心を薦める傾向があることに気づきました。その点から、きっとロボット相手じゃなくて子ども同士でも、そういう関わり方をしているんだろうなというふだんの生活の姿が垣間見えたような気がしました。


ロボットだからこそストレートにそれが見えたということですね。結局ロボットは「自分の鏡」になっているということなんでしょうね。自分がしてほしくないことはロボットもしてほしくないに違いない。だからさっきの子も、自分が言葉に詰まった時に待ってほしかったから、待ってあげるように言ったわけですよね。他人に共感する、他人の心を類推する力っていうのは、人間が社会をつくる上で特別に発達した要素だと言われてますけど、その根底には、他者を自分の投影、すなわち「自分と似た存在として捉える」というのがある。教育者として「なるほど、こういう原理が働いているんだ」という学びがあったわけですね。


今回の実践は『道徳』の授業の中で、子どもたちが「いのち」についていろいろ考えるわけだけれども、「じゃあ落としどころはどこなんだ?」ってよく言われるんですよ。ただ私は、命はこうだ、「いのち=〇〇」と結論を出すのは難しいけれども、命を感じる場面はいっぱいあるんだという、感情面、情意面の発見をたくさんしてもらうことに価値があったと思っています。


確かに、先ほども話に出ましたが、すぐに解答に飛びついてしまう昨今の状況の下で、最後に先生が「命は〇〇」 ってまとめたら、子どもたちはそれだけ記憶して、せっかく多様な体験をしたそれまでが全部消えてしまいますからね。ワークショップでも、偉い先生はまとめたがりますが、まとめられちゃうと記憶が塗り替えられちゃって、自分の体験で掴んだものよりも、権威者が言ったことを学びにしちゃう。自分が体験して実感したものこそが本当の学びなので、特に『道徳』の場合、落としどころがなくプロセスとして受け止める方が向いているかもしれませんね。


東京学芸大学附属世田谷小学校の黒板に貼り出された授業展開を表した模造紙


5.コミュニケーションロボットならではの意義


松浦先生は今回の授業実践で、驚いたこと、気づいたことは何がありますか?


驚いたことはやはり、機械にも命があると捉えられるような、子どもたちの柔軟性ですね。それは生きている自分があってこそ、相手を思いやれるというものでした。それから、知識や技能を学ぶというのは、自分の外にあるものを取り込むプロセスで、本から効率的に学ぶといった方法もあります。しかし自分と違うものとの“出会い”が、それがロボットであっても、自分の中に新規の思考を引き起こして、曰く言い難い学習になるというのは面白かったですね。


“出会い”ということでいうと、発達年齢にも依りますが、たとえば野外体験を通じて「きのこ」を見たときに、「きのこの気持ちを考えよう」みたいな方向に行っちゃっていいのかという議論はありますよね。幼児だったら可能だし、大人も詩的に考える機会ではあるかもしれないけど、通常『理科』のような科目で取り上げる場合は、やっぱり「きのこの生態」といった話になるべきなので。出会いといえば出会いだし、きのこは生き物だけれども、生き物ではないロボットという存在が、今回は特別にユニークだった気がしますね。もちろんロボットもいろいろありますが、「コミュニケーションロボット」は、人間に似せて、人間的になることを目指して開発がし続けられていますから。


そうですね。だから「AIBO(アイボ)」のようなワンちゃんをはじめ、動物ロボットでの授業展開もあると思うんですけど、自分と話せる存在としてのNAO校長先生だったという教材的意義はすごく大きいと思います。


逆にインタラクションという場合に、通常は「人間対人間」が前提になっているけれども、それだと複雑で授業計画もできないから、ある意味、人間の代わりにロボットにゲストになってもらう実践のようにも感じました。今後もNAO校長先生にはいろんな出番を考えられているんですか?


はい。まさに現在進行形で進んでいるのが、NAO校長先生との関わりを通して「自分の相棒をつくろう」をテーマにした3年生の実践です。たとえば「ピアノを一緒に弾ける相棒がほしい」とか「かわいい相棒がほしい」とか、いろんな意見が出てくるんですけど、どうしてそう思うのか、自分をちょっと遠目からメタ化して考えるというものです。これはもう何か月とかじゃなくて、この1年をかけて取り組んでいきたいテーマです。最初にお話したように、私は道徳教育を「自分を知る」とか「自分を見つめる」ものだと思っていますが、肯定的だけでなく時には批判的に自分を見る力も必要になってきます。そのために、ロボットとの関わりと通して、子どもたちに自分をメタ認知できるような機会を提供していきたいんです。


私自身の教育実践の話をすると、授業の組み立て方で難しいのは、最後に自分自身でどう振り返るかというリフレクションの場面、まさにメタ化ですね。なぜそのように思うのか、さらにもう一段深い内省に繋げていくのが望ましいとイメージはしていても、命令されてできるものでもないし、リフレクションを教えることは本当に難しい。だから先生の場合、まず「相棒をつくる」というテーマでイメージを膨らませるわけですね。一般的、抽象的ではメタ認知にならないので、元の材料を豊かに出した上で深めさせるという手法は、非常に素晴らしいアイディアだと思います。


インタビュー風景(左から、若林靖永CIEC会長、面川怜花さん、松浦執さん)


6.教育は、自由で楽しいチャレンジの場


ただ、現時点では自分がなぜそう考えるかについて「わかんない」という子もいっぱいいて、そういう子たちには「わかんないと書いておいていいよ」と言っています。小学3年生という段階でできるメタ認知には限界があると思いますし、それを私が望んでいる方向に持って行っちゃうと子ども“らしさ”を潰してしまう可能性もあると思っているので。私のやりたいことと子どもの学年とか“らしさ”との塩梅はすごく難しくて、やりすぎないように気をつけなきゃと思いながらも、「わかんない」と書いている子たちが今後どう成長していくかは楽しみではありますね。


他の教科教育だと、「これをマスターして次に上がりなさい」みたいな縛りが強いからそうも言っていられないけど、本来「学び」というのは、その子が用意できている状況下で、適切な働きかけがあることによって変化、すなわち学習するわけだから、目に見える形に現れないからといって、それを無理やりアウトプットさせずに、その子が変わるタイミングを待ってしかるべきですよね。でも現実の「集団指導」的なクラスで授業をするというスタイルは、そういう「個別指導」的な個々人に合わせる学習スタイルとはなかなか両立が難しいですが、特に『道徳』の場合、焦ってはいけない部分だと思いますね。


『学習指導要領』を「しなければならない」マストなものとして受け止めている方が多いですけど、実は「こうしなさい」とはどこにも書かれてないんですよね。特に『道徳』は一番制限されてはいけない科目のはずなのに、教科化されたからといって、時間数厳守とか、特定の教材を使わなければいけないとかに縛られて、すごく幅が狭まっていると危惧を感じています。授業デザインについても、『国語』だって『算数』だって、必ず4時間しなければならないなんてルールは本来なくて、2時間で終わったら、その残った2時間を使ってさらに授業を組み立てていくのが我々教員のデザイン力だと思います。


全部「ボトムアップ」でいいですね(笑い)


本当にその通りで、みんな学校教育を良くしたいと思っている。でも、できない。何がその障害になっているかという議論で、『学習指導要領』があるからだって言う人もいるけど、『学習指導要領』があったって、いろんなことができるんですよね。


CIECに対する期待もそれと一緒で、教育現場を、楽しい経験を重ねていく場にするってことですよね。


私もそう思います。教育現場が楽しくないはずがない。そこには二つの意味があって、一つは、楽しくなかったら、それは良い教育じゃないんですよ。そしてもう一つ。楽しくなかったら、教育効果、学習効果も上がらないと思うんです。いずれにしても、教育は本来教師にとっても楽しい活動のはずなんです。


松浦先生のおかげで、私はいろんなチャレンジをさせてもらっているなって感じます。私が大切にしたいのは「先生が何でもしてくれる」じゃなくて、子どもたちが自分の力で考えるようになれること。だから「教えよう」というより、真摯に子どもたちと一緒になって「悩んで考えよう」というスタイルを今後も大事にしていこうと思っています。


本当にCIECも、楽しい教育現場を広げていける、ユニークな実践を頑張っている先生方がお互い励まし合って交流できる場になるように、もっともっと盛り立てていきたいと思いますので、今度ともどうぞよろしくお願いします。本日はインタビュー、どうもありがとうございました。


インタビュー後も話題が尽きない3人(左から、面川怜花さん、松浦執さん、若林靖永CIEC会長)


開催趣旨

オープン・エデュケーション部会では、世話人を中心にここ数年をかけて北米を中心にニューヨーク公共図書館やカリフォルニア大学などの図書館やラーニングコモンズを継続的に視察している。そして去る9月には、カリフォルニア州立大学ドミンゲスヒルズ校を訪問し、カリフォルニア州立大学23校間における図書館連携、オープンエデュケーショナルリソース(OER)の現状を視察してきた。さらに、パサデナシティカレッジ校では、カリフォルニアにおけるコミュニティカレッジの課題とその解決の方法の一つとしての図書館そしてOER の在り方を調査してきた。

 今回の研究会では,まず吉田氏からオープン・エデュケーション部会の取組と北米の視察の報告,UCOMのFaustino Hernandez氏から北米の高等教育におけるデジタル教材等の最新情報、武沢氏からMERLOTとOERについて、伊藤氏からは中等教育の視点からの報告、さらに澤口氏から英国におけるオープンユニバーシティの現状と課題を報告する。

 以上の報告を受けて、参加者とともに、高等教育や初等中等教育における図 書館、OERなどの在り方などを中心に議論し,万人に開かれるオープンな学びを実現するための教育環境の課題について考える。

対象・人数

参加人数:約20名

資料